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見ることに言葉はいるのか ――ドイツ認識論史への試み――

  • 嶺岸佑亮・増山浩人・梶尾悠史・横地徳広 編著
  • 四六判・477頁・並製
  • 定価 3,300円(本体価格3,000円+税)
  • ISBN 978-4-910425-07-8
  • 発行 2023年4月26日

<編集者イチオシ!>

  第一論集『生きることに責任はあるのか』(2012年)、第二論集『戦うことに意味はあるのか(増補改訂版)』(2023年)に続く大好評の第三論集、ドイツ認識論史論集をお届けします。『見ることに言葉はいるのか』は、真・善・美・正の中の「真」に焦点を当て、ドイツの多くの哲学者たちがどのような問題を課題として引き受け、「認識のはたらき」について問うてきたのかを詳らかにします。
 「認識のはたらき」は「生」を高めることができる人間の「本質的な能力」であり、現実世界を変容しうる力をはらんでいます。哲学者たちを「認識することの領域」へと導いた「響きの発生の現場」に本書を通じて立ち会うことは、読者が自らの問題について認識する際の指針と勇気を与えてくれることでしょう。


(担当編集員:澤田 真一)

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内容紹介

 『見ることに言葉はいるのか――ドイツ認識論史への試み』を楽しんでもらうべく、読者に哲学的問題を紹介しておく。

 たとえば、手に触れて立体や球体がわかる盲人は、新たに視力を手に入れたさい、目にするだけで立体と球体を見分けうるだろうか。

 英国哲学のモリヌークス問題である。

 では、言葉の場合はどうだろう。
 盲人の世界は独自の豊かさに満ちていると言われるが、それを表現した言葉は、盲人が視力を得て新たに目で見た世界に適しうるのか?

 見るひとが言葉をもちい、語るひとが眼差すこと、これが実は当たり前ではないなか、〈当たり前さ〉を過剰なまでに吟味するドイツ哲学の徹底ぶりを堪能していただきたい。

・シリーズ
生きることに責任はあるのか―現象学的倫理学への試み―
戦うことに意味はあるのか [増補改訂版]――平和の価値をめぐる哲学的試み
戦うことに意味はあるのか―倫理学的横断への試み―

目次

序 文・・・〈認識すること〉をめぐって
――ドイツ哲学の場合(嶺岸佑亮)

序 章・・・ドイツ認識論と超越論的言語哲学
――一つの見取り図(梶尾悠史)

第Ⅰ部・・・哲学するラテン語とドイツ語のあいだ 
第1章・・・語り得ないものを語るということ
――マイスター・エックハルトにおける認識の問題
(嶺岸佑亮)
第2章・・・バウムガルテンの存在論と世界論
――世界概念の基礎付けをめぐる思考(1)
(増山浩人)
第3章・・・カントのカテゴリー論と理念論
――世界概念の基礎付けをめぐる思考(2)
(増山浩人)
第4章・・・美は人間を人間たらしめる形成手段である
――シラーにおけるヒューマニズム、カント、ゲーテ(嶺岸佑亮)

第Ⅱ部・・・ドイツ語で思索する古代ギリシア哲学 
第5章・・・自我と認識
――イエーナ期ヘーゲルをめぐって(嶺岸佑亮)
第6章・・・〈イデアを観ること〉とはどのようなことか――プラトニズムの問題から見たヘーゲル
(嶺岸佑亮)
第7章・・・フッサールとプラトン
――知識の起源としての臆見(梶尾悠史)
第8章・・・実践的推論において見ること
――『ニコマコス倫理学』のハイデガー的現象学
(横地徳広)

第Ⅲ部・・・ドイツ語で哲学するユダヤ人たち
第9章・・・コーエンにおける無限判断とその射程
――序説(馬場智一)
第10章・・・ローゼンツヴァイクのコーエン論におけるハイデガー
――「入れ替えられた前線」を起点として
(佐藤香織)
第11章・・・機能・シンボル化・人間学
――カッシーラー哲学を読み解くための三つの観点
(千田芳樹)
第12章・・・ローゼンツヴァイクと聖書物語
――「本質認識」批判としての「語る思考」
(佐藤香織)

第Ⅳ部・・・ドイツ認識論で現象を救う 
第13章・・・フッサールとブレンターノ
――志向・明証・反省(梶尾悠史)
第14章・・・ハイデガー的カントの図式論=演繹論
――或るヴィトゲンシュタインとの接点(横地徳広)
第15章・・・沈黙と饒舌
――ウィトゲンシュタインとショーペンハウアー
(千田芳樹)

終 章・・・ドイツ哲学で認識の身分を問う
――本書をふりかえりつつ(横地徳広)